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    病気になった時、治療を選ぶ時、その後の生活で・・、人は何を感じ考えるのか。当事者が動画で自身の体験を語っています。内容別、年代別などに「語り」が探しやすくなっています。現在は乳がん患者・前立腺がん患者の「語り」が公開中です。
  • 健康を決める力:ヘルスリテラシーを身につける
    健康になるために”情報を収集し選択し利用する”力である”ヘルスリテラシー”を身につけるためのサイトです。多くの情報を得られる今の時代、健康になるために何を選ぶか、情報を使う力はとても大切だと思います。
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    障害を持ちながら学ぶ学生を支援している団体です。入試やキャンパスライフ、就職など、経験と調査に基づいた豊富な情報が得られます。「大学における障害学生の受け入れ状況に関する調査」の結果なども公開されています。
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    三叉神経痛をはじめとする顔の痛みを抱える人・家族のための団体のサイトです。医療者を含め1000人以上が登録しています。研究の動向や最新の治療などの情報発信、体験談を共有するためのコミュニティ、若年者のチャットなどがあり、豊富な情報が得られます。
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    研究室のブログです。ゼミ担当者がその日の記録を書いています。
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2012年4月15日 (日)

新しくブログ始めました

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今年の桜は短かったですが、桜の後は、ハナミズキ・・・。まだ春の花を楽しめそうです。

「新年度」と呼べるうちに・・と思っていたのですが、あっという間に4月も半ば。時間が経つのは早いです。先日、あるとても面白い方にと~~ってもお世話になりながら、新ブログをオープンさせました。

「看護情報学サイト」です。(タイトルはそのうち変わるかもしれません。。)ひとつふたつ、「始めます」宣言をした後、初回の記事は「自分の体のことをどのくらい知っていますか?」をタイトルに書いてみました。

まだ記事は溜まっていませんが、ヘルスコミュニケーション、ヘルスリテラシー、保健医療の情報に関するあれこれ、そして日々のことなど、綴っていこうと思います。

今後ともどうぞよろしくお願いします。コメント、ご意見ご感想なども、大歓迎です。

2012年3月31日 (土)

ありがとうございました。~このブログについて~

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あっという間に年度の終わり。まだやり残したことはたくさんあり、慌ただしい毎日ですが、暦の上ではひと区切り・・ですので、この年度末を持って、このブログも一区切りにしようと思っています。

特にこの1年は、このブログを通じて本当にたくさんの出会いがありました。ブログなどネットで出会ってその後リアルにお会いする方の数がぐっと増えましたし、興味関心を同じくする人と知り合える「情報縁」という言葉を実感する日々でした。

時に自分の病気のことも書いたりして、書いては消して・・・なんて一貫性のないこともやってきましたが、それもいい経験だったと思ってます。

来年度からは心機一転、ちょっと違うところでまた、思ったことを書いていこうと計画中です。(準備が整ったらまた、ここにお知らせさせて頂きます♪)

本当にどうもありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

2012年3月末日 瀬戸山陽子


2012年3月21日 (水)

実践と研究を行ったり来たり~日本健康教育学会誌特別号について~

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先日届いた日本健康教育学会の学会誌の特別号は、実践報告がテーマでした。実践報告は、学術研究における厳密性の基準を満たしていないという理由から、学術論文に投稿すると「原著」扱いにはされなかったり、格が下であると見られがちです。その流れを批判的に捉え、なぜそのようなことが起きるのかを検討した方々が、実践報告を論文に掲載することの意義や役割についてコメントを寄せています。同時に、実際の実践報告を4本掲載し、さらに実践報告の執筆要領を追加するという形で、今回の特別号は構成されていました。

確かに私も今まで、学会発表等で実践報告を目にすると「やりました報告」に見えてしまい、研究として未完成であるように感じていたのは事実です。“学会発表どまり”で論文になっていない実践活動は、研究の質としては「低い」ものなのではないかと漠然と感じていました。また、自分がかかわっている実践活動に関しても、学術論文として評価されにくいという理由で、論文投稿にエネルギーを注いでいないという、本来は批判されるべき状態になっているのです。

しかし、今回の特別号は、自分自身の研究に対するものの見方を振り返るきっかけになったように感じます。本誌のコメンタリーでは、活動のプロセスが「丁寧に」記述され、その事業における課題が明示されて、それを読んだ読者が自分たちで「できる、やってみよう」と思えることが、実践報告において重要であると述べられていました。実際今回掲載されていた実践報告論文も、(もう少し教材の実際の写真などが豊富だと、さらに読者はイメージしやすくなるのではと思いましたが)、その活動プロセスが詳細に書かれているために実際の様子を想像しやすく、読み手としては、「真似をしてみたい」「できそうだ」と思えるものだったのです。

考えてみたら確かに、日本全国非常にたくさんの「実践活動」が行われています。しかし、いわゆる医学研究におけるエビデンスの高さや測定用具の厳密性などアカデミックな研究に求められる質の高さが、必ずしも実践報告の質を評価する指標として適切とは言えません。つまり、多くの実践報告が、学術研究ベースの評価では上位に上がりにくいという理由で文章にならないまま…すなわち他者と情報共有されないままになっているとしたら、それこそ資源の効果的な活用がなされていないことになってしまいます。実践を積み重ねてそれを評価して次につなげるために、実践報告が適切に公表されて共有される場は非常に重要だと、今回改めて感じることとなりました。

 

 

繰り返しになりますが、健康関連事業に関しては、日本全国で本当にたくさんの実践活動が行われているはずです。それらが例えば対象や介入方法、使用ツール、目指される保健行動別にデータベース化されて、誰でも閲覧できるようになれば、もっと過去の活動から学ぶことが可能になり、新しい個別の活動を効果的・効率的に行うことが出来るのではないでしょうか。今回の特別号とは直接関係がないですが、実践活動に関する「情報共有」の必要性を考えていたら、ふとそんなことも思いつきました。

 

 

最後に。今年度は実は、手元に届いた学会誌を「(読まないで)積ん読」状態にしてしまったことが、本当によくありました。他に読む物がたくさんあったのですが、それは単なる言い訳。送られてくる学会誌には、「自分が意図しないものとの出会いやそこからの学び」の機会が多くあります。この1年はそれを逃していたかもしれないなと思ったら、ちょっと反省させられました。もうすぐ新しい年度の始まり。新年度はこういう学びの機会を大事にできればと思います。

2012年3月17日 (土)

保健医療社会学会看護ケア部会に参加してきました

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保健医療社会学会の看護ケア研究部会に参加してきました。テーマは看護者による「意思決定支援」。自治医大の中村美鈴先生がこれまで発表された3本の「救急場面における延命治療」の意思決定について分析された質的研究をもとにプレゼンされました(内容は、ツイッターでちょこちょこ呟きました)。

今回取り上げられていたのが救急場面における延命治療の意思決定に特化した内容で、自分の勉強不足や想像力の不足を感じることが多かったのですが、それでも、様々なことを感じる機会となりました。

 

 

まず全体を通じて感じたことが、日本でこの分野に関する議論をする場合、海外で行われている意思決定支援研究をもっと知らないとな・・・ということ。例えばリスクの伝え方とか表現の仕方とか、そのタイミングとか、「意思決定『科学』」の理論的な部分も。

世界中では、意思決定支援ツールが疾患や状況ごとにも非常にたくさん開発されています。意思決定の「質」を評価する(当事者の満足度・葛藤度などの)尺度も複数開発され、利用され、文章化されています。

勿論それらを批判的に捉え、日本の文化を十分に踏まえたケアを見出すことは重要だと思います。また、現場からその場の個別的な現象をvividに記述していくことで、現象を外に伝える役割は大きいです。

ただ、世界中で多様な議論が既になされているので、それらと個別的なケースを行ったり来たりさせて考えを発展させることが、今後は必要だと思うのです。もしかしたら自分たちが直面している問題が、既にどこかで議論されて、解決策が模索されている(場合によってはもう解決策が見出されている?)問題かもしれないから。ここらへん、物事を抽象化したり海外と比較することで自らの置かれた状況をより深く理解するような、そんな視点が必要だなと思いました。

 

そして自分自身のことを言うならば、もっと現場の様子を学ぶ必要があって、それを既存の研究や理論と照らし合わせて何が言えそうかを考え言葉にしていかなくちゃなということ。これに関しては、今月号の日本健康教育学会誌特別号を読んで思うことがあったので、また、別の記事で書こうと思います。

 

 

 

あと、私の質的研究に対する理解が足りないかもな…と言うこと。「どのような経験なのか?」というリサーチクエスチョンが立てられている「どのような」という状況が、結果から読み取れないのです。

研究は現象を変数で置き換えて測定する…ということをずっとやってきた自分としては、質的研究でよく言われる、その「どのように」という部分を、ついつい変数で置き換えたくなるのです。その中に多様な現象が入り組んで入っている状態をスムーズに解釈できない。。。だから、既存の理論との照らし合わせもうまく進められない…。今日な話を伺っている間、終始そんな状況になってしまっていました。

もちろん各研究者によって、自分の得意分野はあります。全部が全部できる研究者はいないですし、それは当然。ただ、自分で遂行するのが不得手だとしても、それを正当に解釈できないとcriticalに捉えることもままならないんですね。

 

また他にも、「当事者が意思決定する能力を、医療者が判断できるのか」という議論や、「意思決定を選択できる(迫られる)状況がそもそも不当で、社会の在り方に問題があるのでは?」といった意見など、色々な視点からの考えを聴くことが出来ました。

 

人の意見を聞いて、自分の考えを振り返ることは多々。

井の中の蛙にならないためにも、立場や視点の違う人と話をすることの重要性を改めて感じた日となりました。何よりも気づきがあることは楽しい。さ、今度はどこの海に出て行こうかな♪

2012年3月 2日 (金)

博士論文発表会を終えて その1:原稿を読む形のプレゼンは、卒業しませんか?

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<写真は先日の大雪の日の、ヒトと犬の足跡(気に入ったので、再掲)>

 

ご無沙汰してしまいました。

2月の最後の日にこんな大雪になるなんて、春はまだ遠いのでしょうか。雪にはわくわくしますが、寒暖の差が激しいので、体調などお気を付け下さい。

 

 

先日聖路加の大学で、博士論文の発表会がありました。Facebookでも呟きましたが、先輩に「学生最後の仕事だね~」と声をかけて頂いたことがとても励みになって、沢山の方に協力して頂いた研究結果を、これまた沢山の方に聞いて頂ける貴重な機会なんだ・・と思って、臨むことが出来ました。途中止まったりもしましたが、事前に皆に伝えればいいよと言ってくれたボスに感謝。つくづくサポーティブな環境にいることを感じる一日でした。

 

 

それから数日間、様々な所で、当日の私の発表について、分かりやすかった、面白かった・・などと声をかけて頂きます。研究の内容や調査の仕方についても、問い合わせのメールを頂いています。一つ一つが本当に、素直に嬉しいです。

 

で、発表会を振り返っていくつか思うことがあるので、それを書いておこうと思います。本日はその一つ目。(一院生=発表者の立場でありながら、こんなことを言うのは少々生意気だし角が立つかもと思っています。でも、今だからこそ言えることがあると思うし、看護学研究の質を上げたいよね・・という思いもあります。また、身近な人に言うだけでなくて、今はここ書いて見て頂く手段があるので、活用させて頂きます。ブログって自由だな~。ご意見などもお待ちしてます♪直メールでも大歓迎。)

 

 

で、発表会を終えて思ったことの一つ目は、「原稿を読む形のプレゼンは、卒業しませんか?」ということ。

 

 

 

発表会後に私が声をかけて頂いた内容で多かったものに、プレゼンが分かりやすかった、台本を読んでなかったから伝わった・・というものがありました。

 

私も以前は、「○○です。」という所まで原稿を作って、プレゼンに臨んだことがあります。スライドには含めないけれど、口頭で伝えたいことがある時は、メモがないと忘れそうになるので、「~です。」「~ます。」といった文末まで丁寧に入れた原稿を作っていました。途中で止まっても、これがあれば安心・・と一応思うのかもしれません。

でも、自分でやってみると分かりますし、人のを聞いていても感じると思うのですが、台本を読んでいる形のプレゼンは、聴衆に伝わりにくいです。字面を追うことに意識が行くので話し方の抑揚が失われますし、頭で考えながら話すということがしにくいと思います。原稿は途中で頭が真っ白になって止まらないための保険なのだと思うのですが、原稿を読むことで伝えたいことが伝わりにくくなるのだったら、保険をかけている意味がないと思うのです。

 

 

今回の発表会では原稿を読む方が多い印象があって、それが気になってしまったので、そのことをちらりと周囲に漏らしました。そしたら、「アナタだからできるんだよ・・・」的なことを言われてしまいました。。。。。

 

 

・・が、それはちがいますよ~。身近な方はとてもとてもよく知ってくれていますが、私自身はすごく上がり症で、緊張しいです。いつも失敗したらどうしようと思っていますし、体調によってはたった10分も連続して話せません。。。今は以前よりずっと、自覚的には滑舌も悪いデス。。。プレゼンはいつも心臓がどっきどき・・。

 

でも、少なくとも学位論文の発表会でプレゼンをするのは、自分の研究の内容です。何度も何度も何度も何度も読み返して、協力者の方にその意義や方法を説明して、先生方からの審査も複数回受けて、ゼミでも沢山の人にもんでもらって・・・という、自分の大事な研究。

だから、みなさん、原稿なんかなくても喋れるんだと思います。

 

もちろんプレゼンに練習が必要なことはあると思いますが、それなら練習をすればいいんですよね。うちの大学は有難くて、発表会の日の前数日間は練習のためにホールを開放してくれていました。そこまで大学がお膳立てしてくれるのだから、しっかり活用して、自分の大事な大事な研究を一番伝わる形でプレゼンをしたいじゃないですか・・・・。

 

 

自戒も込めて・・ですが、伝わる形でのプレゼンを、もっと真剣に習得していきたいなと思いました。研究は人に分かってもらってナンボ・・ですので。看護系の院生のみなさま、いかがでしょうか?

~生意気ですが、続けます♪

2012年1月23日 (月)

「パブリックヘルス~市民が変える医療社会~」を読んで。その3 ヘルスリテラシーの必要性など。

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<またまた、赤坂日枝神社の寒桜。ちゃんと、桜の香りがするのです。>

 

またまた本の続きです。著者は本の中で、これまで挙げた例以外にも、人々の健康と社会について考えるための、とてもvividな、多くの実例を提供して下さっています。

ダウン症児が(セラピーでなく)楽しむために行っているバレエ教室を見学されて、個人の障害とそれを取り巻く社会を話題にしているくだりもそうです。社会学ではよく出てくる「健康」の定義や、健康度の測定の話。「インクルージョン」という考え方。障害は個人の問題ではなく、それを許容できない社会の問題であるという捉え方なども出てきます。

 

また、私はテレビ番組を見ていないのですが、本を読んでとても衝撃的だった事故の話にも触れられていました。それは、JCO事故について取材した「被爆治療83日間の記録」です。

日々原子力の恩恵を受けている社会の一員として、(また著者は医療系学生にこの番組を見せておられるそうですが、)これから医療者になるものとして、あの事故から何を学び、どう行動できるかという問いが、投げかけられています。こちらも、今後ずっと考え続けていかなくてはいけないことでしょう。

 

 

著者も触れていますが、社会の仕組みや制度は、上から降ってくるものではなく、「国家」と「市民社会」の対話の上で作り上げられるものです。様々な課題がある保健医療の社会問題について、文句があるなら自分たちで責任を持って…ということなのでしょう(←これは私の言葉です。少々荒い言葉を使ってすみません…)。個人を責め過ぎるのは問題ですが、どれだけ健康問題を自分の問題として捉え、当事者意識を持てるかということが、一人ひとりに問われているように感じます。自分たちの社会のことなのですから。

 

このあたり、著者もこのキーワードを出して少し書かれていますが、社会を構成する人々のヘルスリテラシーの必要性を感じます。ヘルスリテラシーとは、健康医療情報を収集し、理解し、使う力です。ヘルスリテラシーは、臨床的な場面で使われる場合、慢性疾患の自己管理能力などと密接に関係しますが、より広くパブリックヘルスの場で解釈される時は、単に知識があるだけでなく、周囲に働き掛けて、健康的な社会を作るために現状を変えていける力が重要であると強調されてきました。

本書はまさに、社会を変える力であるヘルスリテラシーの必要性を、様々な視点から、多様な例を盛り込んで、分かりやすくメッセージとして届けて下さったものだと改めて思います。このヘルスリテラシーについては、私もすこーし書かせて頂いた「健康を決める力」のサイトに、リンクを貼らせて頂きます。

 

 

3つの記事にわたって書かせて頂いた、この「パブリックヘルス」という本に関する雑感。字数制限がないことをいいことに、つらつらとまとまりのない感想を書いてしまいましたが、お付き合い頂きどうもありがとうございました。

この本は私にとって、次に繋がる緒(いとぐち)に溢れた本でした。今の自分の興味関心は、インターネット上でのサポートの授受や、人と人との繋がりです。それらを、健康にどう活かせるかということです。それを考える際に、この本は、多くのヒントときっかけを下さいました。この出会いに感謝しながら、引き続き、著者のブログ記事も楽しみに拝見させて頂こうと思います。

 

 

 

最後に・・・。最近(ではなく、おそらく院生になってからずっと、)文献を紐解くたびに、自分の知識の浅さを感じます。文献を批判的に読もうにも、知識がないと「ふ~ん」で終わってしまうのです。これでは文献との対話も出来ないですし、学んだことになりません。本を手に取るたびに、いつもいつもスタート地点に引き戻される感覚を抱くのです。

ただこれは、次に何が待っているのかワクワクする感覚を伴うものなので、楽しくもあります。学びの成果を形に残さにゃ~と思いますが、同時に精一杯、この感覚を楽しませて頂きたいです。

混沌とした社会の保健医療の問題を、すぐに解決することは到底出来ません。でも、この本のように、健康的に暮らせるような社会は自分たちで作るものという考えには、心から納得できます。私も、引き続き、自分の立場から自分のできることを地道にやっていこうと思っています。

 

最後になりましたが、この本のリンクを貼らせて頂きます。易しい文章ですので、これから医療者を目指される医療系学生の方々にも、社会の一員である市民の方々にも、もちろん現役の医療者の方々にも・・・、多くの方に是非読んで頂きたいなと個人的に思っています。

「パブリックヘルス~市民が変える医療社会~」を読んで。その2 共同体の一員としての意識を育むもの

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<赤坂日枝神社前の寒桜。ビルが立ち並ぶ都心の真ん中で、たくましく、美しく。>

 

 

ひとつ前の記事に引き続き、「パブリックヘルス 市民が変える医療社会」を読んでの感想をシェアさせて頂きます。今回は、共同体の一員としての意識を育むものについてです。

 

著者は、社会問題を自分のことだと感じる“共同体の一員としての意識”について、ご自身の体験から、興味深いことを仰っています。それは、米国では、成人する以前に様々な人がかかわる宗教的な行事があり、それらに子どもが参加することを通じて、共同体の中での居場所を得て、その中の一員であるという意識が育まれるのではないかということです。

 

以前も書きましたが、私もある方から、米国の「パブリックな意識」について伺い、日本人はその意識が低いと思うと言われたことがあります。その時やはり、米国民に根付く宗教は、パブリックな意識や共同体の一員としての意識を育むのに、何かしらの形で役立っているように漠然と感じました。科学的なデータに基づいたものではないですが、米国で生活されている日本人の著者が肌でそう感じていることに、今回、やはりその可能性があるのか…と妙に納得しています。

 

また、日本人において、共同体の一員であるという意識が低い可能性(あくまで可能性)は、個人レベルにとどまりません。印象的だったのが、日本が、東日本大震災での援助の受け入れ拒んだことについて書かれた個所でした。

 

社会学の「贈与論」では、 “贈り物は単なるモノではなく、「与える」「受け取る」「お返しをする」というプロセスが、社会的なつながりや社会関係を育む”と考えるそうです。贈り物(今回の場合は支援)を与えたり、受け取ったりする関係は、グローバルレベルでの、共同体同士の社会関係を育むものなのかもしれません。

そして、著者の身近にいるユダヤ人の方が、戦中の杉原千畝の好意に触れ、東日本大震災で傷ついた日本を今度は自分たちが助ける番だ…と言ってくれたとのこと。このエピソードに、私は思わず涙してしまいました。

 

勿論、東日本大震災時の海外からの支援受け入れ拒否については、緊急時の対応が一筋縄にはいかないこともあったでしょうし、その後、多くの海外メディアから批判を得て、国内でも、支援の受け入れ拒否を反省するような意見が聞かれました。また、著者も触れていますが、援助を受け入れることにおいての言葉の問題もあります。現に、(関西弁と東北弁というレベルでしか)言葉の壁がない国内では、阪神大震災の被災者が、東北の人を支援するといった支援のやり取りが多く見られています。

ただ、私の少ない経験の中でさえ思うのですが、確かに米国の方は(こういう括り方も乱暴なのでしょうが、少なくとも私が知っている範囲で…の話です。)、他者に「与える」「受け取る」「お返しをする」ことが上手だなあと思います。そのことは、まさに単なるモノだけではなく、言葉にしてもそうです。人を褒めること、褒められたら素直に有難うと受け取ること、また、周りの人にいいことがあったら、今度は惜しみなくそれを称賛すること。

 

もともと個人主義であるがために、個人を評価する仕組みが根付いており、人を表彰することも日常的に行われていることも関係していると思います。ただそれにしても、(物質的な物のやり取りが上手かどうかは、私は判断がつかないですが)米国人は、“言葉や支援の贈り物”をやりとりすることに、とても素直であるように感じます。

対して日本では、シャイな国民性や“謙遜”という美徳意識が手伝って、あまり贈り物(特に言葉の)のやり取りが、得意ではないのかもしれません。よく海外の方に不思議に思われる「つまらないものですが…」という表現にも、日本人らしさが表れていると思います。また、贈り物をしたり、助けたり助けられたりする関係性はあったとしても、「言わずもがな」な文化があるので、記録に残りにくい、他者に伝わりにくいという背景もありそうです。

 

私は日本人のつつましやかな気質や心遣いは、やはり心の底から落ち着きますし、馴染んでいる感覚があります。大切な日本人らしさだと思っています。

ただ、著者が言うように、宗教的な背景や、この「与える」「受け取る」「お返しする」という営みが、社会関係を育み、それが共同体の一員であるという意識に影響するのだとしたら・・・。しかもその意識が、健康を支える制度などの“社会的要因”を経て、人々の健康状態に影響するのだとしたら・・・。そう考えると、日本では「宗教が日常に根付いていないから」とか、「贈り物のやり取りが苦手だから」ということを言い訳に、今の状態に甘んじていていいのでしょうか、という疑問を持ってしまうのも事実です。

 

当然ながら、形式的に、何かを信仰したり、モノや親切、支援のやり取りをすればいいというものではないでしょう。だからこそ、どんな条件下でどのような支援のやりとりがなされれば、かかわる人々の間に信頼や互恵性を伴う社会関係が育まれるのか…それを知りたいのです。

 

さあ、またしても、考え続ける課題を頂いた気分です。

To be continued...

「パブリックヘルス~市民が変える医療社会~」を読んで。その1 市民参加が医療を変えるということ

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<赤坂日枝神社前の寒桜です。この寒さの中、美しく咲くたくましさを見習いたいものです・・・。>

 

 

先日「救児の人々」を読んだ時の感想にも書いたのですが、このところずっと健康問題をとらえる際の“Publicな意識”というのが気になっています。「健康」を自分たち自身の社会の問題として捉え、解決策を探ること。この意識が何なのか、どのような言葉で説明できる概念なのか、何によってもたらされるものなのか。そして、日本にこの意識があるのか、諸外国と比べてどうなのか。・・・・それを、ずっと知りたいと思っています。

もちろん、こんな漠とした問いにすぐにきれいに答えが出るわけではありません。社会はとても複雑です。(それゆえ、とても面白いのだと思います。)それに、この問いに答えを導けるほど、自分の知識も足りていません。

ですが、先日、冒頭の問いを考えるヒントを頂ける一冊の素敵な本と出会いました。そして、本の面白さと分かりやすさに、一気に引き込まれてしまいました。せっかくなので、感想などをここで共有させて頂こうと思います。

 

 

この本は、ボストン在住の日本人研究者の細田満和子さんのご著書で、(本の最後を読むまで存知あげなかったのですが)ご自身が書かれている「ボストンだより」というブログをまとめたものです。

中で取り上げられている話題は、米国の医療とそれを取り巻くヘルスケア“制度”、制度を作り上げてきたものの考え方や背景、米国人の慣習や文化、日本の医療や東日本大震災をめぐる様々な出来事など、多岐にわたります。それらについて、社会学の研究者という立場から、そしてお子さんも含め家族で米国に暮らす生活者として、海外から日本を見る人の視点を織り交ぜながら、とても生き生きと書かれているのです。

本はとても分かりやすく、3センチほどの厚さが数時間で読めてしまうほどなのですが、内容はとても充実しています。また、私自身の興味範囲にとても深く食い込んでくるため、あれこれ思いを巡らしながら感想を書くと、ボリュームが出そうです。・・・なので、この本の感想は、数回に分けて、書かせて頂こうと思います。

 

 

…前置きが長くなりました。

その1では、市民参加が医療を変えることについて、です。


本の最初は、全米で初めて国民皆保険制度を実現させたマサチューセッツ州の例から始まります。中では、共和党と民主党の議員たちが、ヘルスケア政策を巡ってどのような議論を繰り広げてきたか、その議論に、NPOなどの市民団体が、どのような形で参加してきたかが紹介されています。

まず私は、市民団体が政治家を”社会格差を解消させるヒーローに仕立て上げ“、法案成立を成し遂げた…というくだりが強く印象に残りました。本文では、市民が様々な形で政治に文字通り”参加“し、同時に大統領などの政治家も、”皆(市民)の力で政治が変わった“とメッセージを送るという協働のプロセスが紹介されています。

 

 

また、法律改正とは規模が異なりますが、市民の手によって、ひとつの疾患が社会に認知されるようになった例もあります。著者は、日本でも近年様々なところで目にするようになった、慢性疲労症候群をとり挙げていました。当事者が声を挙げ、組織化した運動を行い、その活動が、“原因を究明するための医学研究”や“社会的な支援を促進する制度”へと発展してきたことなどです。


日本でも、医療の改善を求めて組織しているNPOなどはいくつもあります。また、新しいもので言うと、例えば「がん対策基本法」など、市民の声が医療にまつわる法律をつくり、制度を変えてきた実例もあります。疾患ごとの患者団体なども、数多く存在します。

しかし、日本は米国に比べると、「国家」と「市民社会」が議論し、協働しながら自分たちの国や州(都道府県)の医療を変えてきた歴史は浅く、その活動も小規模なのかもしれません。

自分が調べているネット上の健康医療情報を扱うe-patients関連の文献にも、e-patientsがempowermentされて社会を変えた…という話が、本当によく出てくるのです。日本でもネット上の健康医療情報や健康関連SNSを使っている人は多くいるのに、それが、(少なくとも米国に比べて)社会を変える活動に発展しにくいと思われるのは、どうしてでしょうか。

このあたりは、本書の先にも少しヒントがありますし、著者を始め、医療と社会学、もしくは政治学にまたがる分野の研究である、患者団体や患者アドボカシー運動に関する文献なども、勉強していきいと思っています。

 

ページを変えて、次は、本の随所で取り上げられている「共同体の一員としての意識」について、思うことを書いてみたいと思います。To be continued….

2012年1月13日 (金)

「パブリック」を読んで。保健医療での価値を考えてみる。

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<写真は研究所のはす向かいにある日枝神社の寒桜です。色々撮ってみたので、今日からしばらく続きます(笑)>

 

 

年末から積読(つんどく)になっていた本を、年明けに読みました。その名も「パブリック」。

読み終わってから身近な人に指摘されて気付いたのですが、この本、装丁がFacebook色。


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中には、Facebookをはじめ、様々なソーシャルメディア上に自分のことをオープンにすることの意義や、それによるビジネスチャンスについて書かれています。「シェア」や「フリー」などの本もそうでしたが、事例が新しいために長期的な評価はしにくいとは言え、実例が多く紹介されていて、読んでいてワクワクするものでした。

 

 

そして、この本自体はビジネスベースで書かれたものですが、中には少しだけ、保健医療にまつわる話も出てきます。病気の体験者が自分の経験をパブリックにすることで、他の人にとって役立つ情報の提供者になる・・ということです。

 

この本の中で、自分のことをネット上にパブリックにするメリットを、著者は以下の視点からまとめています。

・つながりが築かれる

・他人が他人でなくなる

・コラボレーションが生まれる

・集合知が生まれる

・完全神話が払拭される

・偏見を解く

・名声が得られる

・組織する

・僕らを守ってくれる

 

この分類の妥当性といった固いことはひとまず置いておいて、このような”個人がネット上に情報をパブリックすることの意義”は、やっぱり、保健医療分野においても結構大事なのではないかと思っています。

 

例えば、ある病気の患者がブログに自分のことを書き続けることで、同病の患者と「つながりが得られる」こともありますし、医療者と患者両方がひとつの疾患についてwikiを使ってコンテンツを作れば、双方の視点が織り込まれた「コラボレーション」が可能です。

見かけには分かりにくい障害を持つ人が、日々感じることをネット上にアップしてくれれば、「偏見を解く」きっかけになるかもしれません。

 

もちろん、何でもかんでもネットがあれば絶対万全!なんて思っているわけではありません。(「絶対」なんて言葉は、研究をしている以上あんまりやすやすと使えないと思っています。)ただ、それらしい現象は報告されていますし、感覚的には納得できるものだと思うのです。

 

これら、保健医療におけるネットの意義が「本当にそうなのか??」ということを、データをもとに地道に示していくことが、きっと私たちの仕事です。

 

よし、がんばらねば。

2012年1月12日 (木)

e-patient本 第1章~パワーアップすることが理想だと分かっていても。。

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先日イントロだけ書いた、e-patient本の第1章。この章では、患者が情報を得てそれらを理解して、医師とコミュニケーションをとることがどんないいことをもたらすか・・ということが大まかに説明されています。

まず、喘息があり15年同じ医師のもとで診察を受けている男性患者と、20年高血圧で受診している女性患者の例を通じて、患者が経験する診療場面の典型例が紹介されています。二人とも定期受診の場面で、問診票に記入し、医師に気になることを伝え、薬の調節をし、受診は約15分ほどで終了。よくある「受診場面」の光景です。(日本では「三分診療」なんて言われますから、15分も医師とコミュニケーションが出来れば長い方なんて思ってしまいますけどね。)

次に、患者が受診時にこうして欲しいと求めることについて、一般的なことが書かれています。例えば、

・医師には、自分が言うことについて、しっかり注意を払って聞いて欲しい
・医師には、薬や血圧などのバイタルについて、正確に把握して欲しい
と言ったことです。

そして、(やや唐突な感じもするのですが)、賢い患者になるために、患者自身が知っておくべきことが、リストアップされています。

・病気の原因は何か
・検査を受ける必要はあるか
・どのような検査か
・いつ、どのように検査を受けるのか などなど。

医師とのコミュニケーションが良好でなく、上記のようなことを患者が理解していないと、適切な服薬や自己管理もままならなくて、不定期受診やER利用が増え、結局のところ、患者の健康状態(health)にも効率的な医療(cost)にも悪影響を及ぼします。

 

 

では、情報を得て理解し、エンパワーされた(力を付けた、賢い・・・などと、日本語では訳されているように思います)とは、いったいどのような人なのか。著者が理想とする患者像とは、例えばこんなことができる人だと言います。
・自分で自分の受ける医療をコーディネートできること
・一人の医師のところにただ何となく留まるのではなく、自分にとってベストな治療をしてくれる医師を選ぶこと
・自分が協働できる医療者チームを集めること
・自分のこれまでの状態について知り、それらを責任を持って受診時に説明すること
・自分が尋ねたい事柄について優先度を付けた質問リストを持って、受診すること
・医師が勧める情報リソースについて、アドバイスを求められること
・自分で行動できなければ、自分に代わって様々なことをしてくれる人に助けを求めること。
・医師がすることもしくは何かをしないことで不快に思うことがあれば、それを適切に伝えること

などなど。

 

1章は、以上です。次章からは、このようにエンパワメントされた患者になるために、ネット上のネットワークや健康医療情報をどのように利用していけばよいか・・・ということが、書かれている模様です。期待。

==感想など==
医師とのコミュニケーションが良好であることが、患者の健康状態に重要であることは、これまでずっと言われてきたことです。また、患者が賢くなること、患者自身の責任なども、最近では当たり前のように言われるようになってきました。そのような流れを受けて、”賢い患者像”も、様々な所で描かれています。

日本では例えば、賢い患者になることを推進している市民団体のコムルが「新・医者にかかる10箇条」を作り、公開しているといった例があります。

 

ただ、言うは易し・・・。実際に上記に書かれたような”エンパワメントされた患者””賢い患者”は、一体どのくらいいるでしょうか。また、こういうのが理想だと言われても一朝一夕でなれるものでもないと思います。ましてや健康を害した時にこれをやらなくちゃいけない(自分でできなければ少なくとも人にお願いしなくちゃいけない)のだから、それはとても大変です。

また、こういった理想的なあり方を示すことは大事ですが、それを強調し過ぎると、エンパワメントされた状態になれない場合、その人自身を責めるような”victim blaming”になるのではないかという懸念も感じます。

 

今回のe-patient本。一番最初の章だからかもしれませんが、予想よりはるかに理想論が誇張されている感が否めず、新しい知見を得られるものではありませんでした。。もちろんこの先の各論で、どうやったらネットを使ってこういったエンパワメントされた患者になれるのか・・ということが、書かれていることを期待しています。期待しながら、でも批判的に、、、読み進めていきますわ。

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